岡山大空襲から65年

昭和20年6月29日の岡山大空襲

市街地の73%が焼け野原と化し、国宝(現在の重要文化財に相当)に指定されていた岡山城の天守閣を始めとした文化財も失われた・・・

本日は6月29日、1945年終戦直前の岡山大空襲から65年になります。
そして、2000年7月に母が他界して10年を迎えます。

先月5月17日(月)岡山市のとある食堂で見た山陽新聞の一面ですが、
亡き母が、私によく語った岡山大空襲を思い出し、
戦争体験者が日に日に少なくなっていく現状を踏まえ、
反戦の為、今日でもう65年前になるのでしょうか・・・
その当時の戦争という悲惨な出来事を・・・
戦争を知らない世代ではありますが
慰霊をこめて伝えたいと思います。
この世の中から戦争というものをなくす為に。

[山陽新聞20100517 米軍機による岡山大空襲の撮影写真及び戦災予測エリア地図]
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亡き母の生家は、市役所から少し東へ行くと
今は鯉なども放流されている西川沿い(田町橋付近)にあったそうです。
まさに、赤枠の戦災予測エリア内でした。・・・涙

[岡山空襲平和資料館]
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亡き母の生家があった西川沿いの田町橋付近
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現在の田町橋
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[Zenが六稜トークリレーに投稿した反戦レポートの一節]
・・・今は亡き母から、岡山大空襲の時のことを、当時小学生で風邪をひいて防空壕の中で苦しんでいるところを、あるおじさん?から“そんなところにいたら焼け死ぬぞ”と引っ張り出されたらしく、高熱にもかかわらず今は亡き祖母と逃げ惑う中、機銃掃射に攻撃されるも九死に一生を得たと聞かされておりました。勿論、生家は焼夷弾で全焼、その防空壕に残った方々は老若男女皆様、悲惨な最期を遂げられたとのことでした。・・・
http://www.rikuryo.or.jp/news/050813t.html (全文)


川野辺様の著書、「わたしと西川6・29私の見た岡山大空襲」より

 1945年6月29日未明の岡山空襲では、当時の岡山市街地の大半を焼失し、1700人以上が死亡。当時5歳だった川野辺さんは同市北区田町に滞在しており、姉に手を引かれて火の海の中を逃げまどい、家族で遊んだ思い出の場所、西川に飛び込んで九死に一生を得たという・・・はぐれた両親と奇跡的に再会したことや、焼夷(しょうい)弾の直撃を受けた人を目の当たりにしたショックなど・・・「今でも西川緑道公園を歩くと、当時の惨状を思い出す・・・


[B29爆撃機]
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岩井里子様の悲しすぎる戦争体験談

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 1945年(昭和20年)6月29日未明、岡山大空襲の日、あの日の事は何十年経た今でも涙がにじみます。当時13歳だった私は、岡山市奉還町通りで餅屋をしていた父と母、14歳の姉、11歳の妹、6歳の弟と6人家族で仲良く暮らしていました。
 
 真夜中の事、階下から「空襲だ!早く起きて。」と母の大きな声でびっくりして飛び起きました。いつ空襲があるかわからないので、枕元にきちんと畳んであるモンペを大急ぎで着て、隣に寝ている弟にも服を着せて、2階の窓を開けて東の方を見みると岡山駅あたりが真っ赤に燃え上がっていました。母は救急袋を肩に掛け、塩のざるを持ち出し「塩さえあれば何日かは生き延びられるから。」と言ったので、わし掴かみにしてポケットに入れました。私は弟の手を引いて一家6人、久し振りに昨夜から泊まりに来ていた早島の伯母と7人で西に向かいて逃げました。

 旧西警察署の前のあたりまで逃げてきた時、私は突然大きなショックを受け、それっきり意識不明になってしまいました。どの位の時間が経過したのか解りませんが、うっすらと意識が回復しかけた時、私は路上に横たわり両足左腕がひりひりして痛い、だんだん意識がはっきりするにつれ痛たさも激しさを増したので上半身を起こすと、意識を失なう前と全く異なり、武本木材店や、そこらの住宅からも火の手が上がり路上には何人もの人が転がっています。肉親を探す叫び声や走り回っている人やらで修羅場と化していました。
 
 見ると私が手を引いていた弟も転がっています。そうこうしていると母がやってきて、慶ちゃん(妹)が死んだと言います。色白だった妹は顔はきれいなのに、お尻のたぶが半分とんで即死だったそうです。母が弟を抱き上げると全身火傷で、虫の息の下から「お水お水」と言うけれど断水して水もないので母は、からからの喉から唾を出して飲ましてやったら間もなく弟も息を引取りました。
 
 田植え前で田んぼに水が張ってあり、それに燃えあがる炎の赤い影が揺らめいていた事をはっきり覚えています。西署前の大通りより少し北に入った所に被服工場の若草寮というのがあって、そこに父や姉も収容されているとの事で、私も気が立っていたので、痛い足を引きずりながらも寮へ辿りつきました。停電して暗闇の中でしたが大勢の怪我人や焼死した人が収容されていました。その中で姉も全身火傷で意識はありますが、あまり言葉も出ず苦るしんでいます。一番頼りの父まで大火傷で心臓のすぐ横に焼夷弾の破片がささっている由、けれども意識ははっきりしていて家族の事を心配していました。「わしが死んだらお前が困まる!わしが死んだらお前が困まる!」と母に言っていました。父は店の事、餅屋組合の事、町内の事とお世話が多く、達筆でソロバンも達者でしたので、皆から頼られていました。母は、荷に付いた瓢箪で父についていっていたようです。
 
 まだ夜が明けない内に父の臨終が来ました。しかし灯がないものですからマッチをすりすり父の死に顔を見ました。一瞬の出来事であまりにも過酷な現実に頭がついていけないのか、涙が出なかったような気がします。母が「お父ちゃんも慶ちゃん(妹)も務ちゃん(弟)も死んだ。八重ちゃん(姉)と里ちゃん(私)と三人で頑張って暮らそう。」と言うと姉は頷ずいた様でしたが、夜が白らむ頃には息を引き取りました。とうとう二人きりになってしまいました。
 
 家族が次々に死に、一度に力が抜けてしまうと今度は自分の火傷に気が付き、見ると両足首左腕に大きな水ぶくれが幾つも出来ていて一歩も歩けません。少し熱も出てきた様です。遺体を荼毘に伏すのも各自で始末してくれとの事、女子供ではどうする事も出来ないので、西京町に住んでいる伯父に手伝ってもらって自宅の焼け跡で雨の中、4人のお棺を焼いたのです。私は大火傷で高い熱が出て、伯父の家で寝ていたので、その場に立ち会えませんでしたが、その場にいた母の心情を思うと断腸の念で、いたたまれない気がします。まるで地獄絵の様だったと言います。岡山に居たのでは、私の治療は出来ないと一週間程して、早島の伯母の家に疎開しました。何もかも失なった私達母娘のその後の暮らしは、筆舌に尽しがたいものがあります。

 現在の平和は尊いものです。戦争はむなしいものです。戦争を知らない若い世代の人に少しでも分かってもらいたく、重い筆をとった次第です。

[旧西警察署の位置]
北の方向へ逃げていれば・・・岡山大学津島キャンパスも当時は陸軍施設があり標的にされたが・・・
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某方の手記より抜粋

警戒警報も空襲警報も無いまま突然轟音が響き、不寝番兵が慌ただしく空襲を告げる声にとび起きた。軍服を着て舎前に飛び出し整列して指示を待った。 昭和20年6月29日午前2時過ぎの真夜中で、岡山市津島にあった歩兵第48部隊兵舎での出来事であった。

塹壕に入れとの号令が掛かり急いで穴の中に入った。深夜にも拘わらず急に南の空が明るくなり、数分のうちに敵の機影が何機か見えたと思ったら照明弾が落ちて明るくなった。続いて沢山のアルミ箔様の薄い金属が光を受けて光りながらひらひらと辺りに舞い落ちるのが見えた。瞬間、写真屋のフラッシュに使うアルミ粉末の様に照明用かと思ったが、後で聞くと此れはこちらの探知を妨害する為のものと判明した。
 
夜空を大きく見える数機の機影が行きつ戻りつしたと見ていたら今度は凄い数の焼夷弾が降ってくる。実際は向こうの方に落ちるのに真上から降って来るような錯覚を覚えて気持が悪いが爆弾でないことは判った。味方の迎撃や高射砲の応戦は全く無い。万一に備えての防備システムは何も出来ていない。軍備の疲弊はこんなにも酷いのか。
大きな音が続き南の空が真っ赤に燃え拡がるのが見えた。
 
焼夷弾は南寄りに落ちていて数か所から火の手が上がった。南の方が一面火の海になっているようだった。自分たちが退避している壕は縦壕で上半円の蓋が載せてある。これは昨年初年兵の時に横井村から笹が瀬川沿いに担いで運んだ丸太を使って造ったものだが、上方から降る焼夷弾は防ぎ様が無く役に立たない。B29は轟音と焼夷弾の着弾音を残しながら南から来て北へ飛んで行く。逃げ惑う人達の叫び声が営外から聞こえるが、個人行動が厳禁の軍隊だからどうして上げることも出来ない。
 
やがて空襲が終わり敵機が去って行ったが、南の火の手は益々燃え広がって火の海は途方もなく激しくなる。皆命は助かったのだろうか旨く逃げきれたのかなと心配は募るが動くことは出来ない。夜も白みかけてから幾つかの情報を聞くことが出来た。錬兵場の際まで燃えているが其処から兵営の方へは火は延びていないこと、東山の方から宇野線の方まで燃えていること、油脂焼夷弾で親子式が多く飛散面積も大きかったこと、敵機は南から進入して天満屋から中央郵便局辺りを中心にして爆撃した様だということ、爆弾の投下は無かったこと、被害の詳細は未だ分からないこと等だった。雨か降り出した。

東南から飛来(被災赤塗) 岡山駅の周辺(赤塗りが被災箇所)
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左図の上端くらいが津島だから火は錬兵場近くまで来ていることが判る。二重丸を赤色で書いた点が中央郵便局の辺りで此処を中心に東西南北に延焼し、細い水色で私が記したあの日疎開作業を手伝った西川沿いは全く被災地になり多くの方が亡くなった。
 
初日は分隊単位で軍服に帯剣をした服装で方面を分けて分散し兵営を出た。未だ燃えている中を焼けぼっくいの折り重なる道を南へ歩き、中央郵便局の辺りまで辿り着いたが道々異常な心理状態で走り回る人や身内を探している人達の交錯する中を只管歩いた。途中未だ燃えているし道の端に遺体が残った板。全く地獄の絵図の様だった。人の焼ける臭いがする中を覗くと防空壕等に遺体が在った。

特に郵便局の北側軒下には彼是20人くらいの遺体が並べられてあったし、天満屋の横を通る時に地下室で蒸し焼き状態で死んだ人が沢山居ると聞いたが寄ることは出来なかった。行けども行けども夕方近いのに未だ燃えていて全焼の場所は東山近くまで続いていた。呆然としている人達が多かったが若い我々にはなす術も声を掛けてあげる勇気も無かった。中島を通る時に左北側角に一軒だけ焼け残ったすし屋の周囲に遊郭の女性達が着流しのまま沢山集って泣いていたが、電車道を挟んだ南側は全焼してしまっていた。

2日目はまた幹部候補生達は岡山駅の前にあった戦用倉庫の片付けを命じられた。駅西口の少し東だったと思うが、鉄道のすぐ北にあった工場が燃えて廃墟になっている一郭があり、未だブスブスと煙が立って歩道が確保出来ない中を少しずつ歩いて駅に近付いていた時突然私の片足がずりこんだ。散乱した建物の焼け板が溝を塞いでいたために気付かなかったが下は深い溝で、その中に落ちる様に片足をずり込ませた時に溝の縁でいやと言うほど胸を打ちつけ瞬間息が出来なかった。胸の痛む所に手を当ててみると左胸のポケットに硬い物があり、私を救ってくれたのはアルミ製の煙草ケ-スだった。ケ-スの真ん中は凹んで潰れた格好になっていたが此れが私を怪我から守って呉れたのだ。下半身ずぶ濡れの体を手で支えて上へ上がろうと身の回りの焼けた板を払い除けたときに、左側に防空頭巾を被りモンペ姿の若いお母さんが赤ちゃんを背負って溝の中に浮いている姿を見た。何とも痛ましく胸が詰まった。健気な親子に心の中で敬礼して目的地に急いだ。

○後日談がある

図書館で岡山空襲の証言集を見ていた時に、1928年生まれの女性の言葉として、--足の悪い父を助けながら西川の家屋疎開をした後の広い空地に大勢と避難した。「爆弾が落ちる度に水にもぐれ」との消防団員の指示だったから其の通りに溢れるばかりの水を頭に被りながら空襲をやり過ごして、みんなが助かった時には此の西川への感謝は尽きなかった--と言う手記を拝見し、我々が関係した疎開作業も少しは役に立ったかなと喜んだ。又、別の人の手記をみると西川のどの辺りか分らないが、--西川は死体で埋まって、生きているかの様にゆっくり水に流されていた--と書かれていた。

70機のB29、サイパンから飛んだと云う敵機が戦力生産の地域でもない岡山市の一般人生活区域を襲撃して大半を焼き尽くしたと云うのに、警戒警報一つ出し得ず迎撃の1機の抵抗も無かった飛び立たことに一兵として歯軋りするほど腹立たしい限りであった。


某方の手記より抜粋

昭和20年、6月29日,未明。
B29約70機が岡山市上空に現れる。
焼夷弾爆撃開始。
寝込みを襲われ、死者1725人、
焼け出された人104600余人。
家屋焼失25196戸。
焼夷弾の直接の死傷者も多かったが、
防空壕や地下室での窒息死も多かった。
当日の様子は、ともさんに・・・。

ふと、プロペラの音に目が覚める。
縁に出て見る。
雲の切れ間に機影が見えた。
B29らしい。
北東の空を見ると赤い。
これは、岡山が空襲されている。
団服を着て飛び出した。
誰も起きていない。
空襲と大声で叫びながら大波止の漁業組合に走る。
当直を起こし、本部に連絡するも空襲の発令はないと言う。
岡山は空襲されているではないか。
呼松は単独で空襲警報を発令すると言って電話を切った。
B29は、上空を通りながら岡山方面に向かっている。
焼夷弾が落ちるたびに空が赤くなる。
岡山は全滅しているであろう。
呼松が発令してから数分後、本部も発令,各支部も発令を始めた。

朝になり、福田職業訓練所に出勤すると、
校長はじめ数名が心配顔で集まっている。
校長の話では、岡山には実習生二十余名が出張している。
安否が心配であると言う。
協議の結果、指導員が自転車で確認することになった。
とうもろこしと麦の入った握り飯をもろぶたに入れて出発した。
庭瀬まで行くと東に行くことは出来ないという。
事情を話しても応じない。
身分証明書を出せという。
幸い、呼松の渡辺指導員が持っており、ようやく通ることができた。
避難者がニ号線を歩いてくる。
子供を連れた女の人。
服のない人。
中には仏壇を背にした者もいる。
新屋敷付近に行くと、直径1メートルくらいの穴がある。
焼夷弾の爆発した穴だ。
朝九時頃、宇野線ガード近くに行った時、いた。
指導員二名と生徒が集まってくる。
早速、握り飯を配る。
一人の老婆が一つくれと言う。
だが、他人にやる余裕がない。
可哀相だが断る。
三名いないと言う。
捜さなければならない。
宇野線ガードより焼けた家ばかり目を東に見渡す。
右に大学病院、左に天満屋他ニ・三のビル。
岡山城が見えない。
焼けたのか。
大供の十字路を左に岡山駅に向かう。
赤レンガの鐘紡、専売局の外側だけが残っている。
現林原駐車場前の小川のほとりに、
辺り一面火の海の中で、地蔵堂が一つだけ残っている。
なぜ、ここだけ焼けずに残っているのか。
駅前の倉庫はまだ焼けている。
突然爆発があり、豆らしい物が飛び散る。
駅南の車庫には死者が並べてあった。
七・八十名か、いやもっと多いかもしれなかった。
出ている所は赤くなっている者。
黒くなり、男女の別も分からない者もある。
これらを見て回るがいない。

三十メートルおき位に着剣した兵隊が立っている。
電車通りを城下に向かう。
電線にトタン板が新聞紙のようにかかっており、
炎のあおりでガラガラと鳴りいつ落ちてくるか分からない。
あちらこちらに死体がある。
城下付近に女の死体がニ体、赤くなって転がっている。
看護婦だと言っていた。
電車通りを大雲寺町へと向かう。
天満屋の地下には多数の死者がいるらしいと話していた。
もちろん表町の通りには入れない。
大雲寺町より右折れし瓦町通りを大供に進む。
両側の防空壕や道路にも死体がたくさんある。
でも、捜す子供は見当たらない。
大供十字路で二手に分かれ、
大元、妹尾、興除を経て郷内の大上、藤原の両君を捜すことになった。
大元駅前に出た時、爆発音があり、救助隊がタンカを持って走る。
不発弾が爆発したらしい。
一名タンカで運ばれていく。
興除付近には、あちらこちらに薄いアルミの銀紙らしいものが落ちている。
これは、ラジオの電波障害に使用されたらしい。
ために、放送がなかったのであった。
郷内に帰り、藤原君の家に行くと帰っていた。
大上君も一緒に帰ったという。
一同無事を喜ぶ。
これは、二人とも帰る道をよく知っていたのと、
途中、トラックに乗せてもらったからであった。
だが、とうとう一名帰らなかった。
空襲の犠牲者となってしまった。
可哀相なことをした。


空襲に至るまで
 第二次世界大戦中のアメリカ軍は1944年(昭和19年)から市街地を対象として日本全土に大規模な空襲を行った。当時の岡山市は人口約16万人の中小都市であり、市域の北部には陸軍の兵舎、兵器廠が存在していた。また、山陽本線を始めとした鉄道網が放射状に整備され、物資輸送上の拠点ともなっていた。こうしたことから、岡山市はアメリカ軍によって全国180の空襲対象の都市のうち、31番目にリストアップされた[2][3]。

アメリカ軍の『目標情報票(Target Information Sheet)』には、岡山市を空襲することの意義について次のように述べられている。

A raid on Okayama should serve as an additional notice to the Japanese people that they will not go unnoticed or unharmed, even in the smaller urban industrial areas, if their city is at all important in the prosecution of the war. If the future looks grey to the people of other small cities, this might add the tint which makes it black.
(岡山市への空襲は、たとえより小さい都市でも、その都市が戦争遂行上少しでも重要な働きを果たすものならば、見逃されるとか無傷でいることはできないという、更なる警告となるべきものであらねばならない。もしもほかの小都市の住民が、自分たちの未来は灰色だと思っているのなら、この空襲はそれを真っ黒にするであろう。)

– [1]

 アメリカ軍は岡山市の重要性として、陸軍兵舎・兵器廠(現:岡山大学津島キャンパス、岡山県総合グラウンド)、岡山駅と操車場、市の南西約25kmにあった三菱航空機工場(現:倉敷市水島)など、15か所を挙げていた。しかしながら、アメリカ軍はこれらの軍事的な拠点よりもその下請けとなっている多数の小規模な工場と労働者、すなわち一般市民を攻撃対象とした。実際、アメリカ軍は15の重要拠点のうち、焼夷弾による攻撃対象地域に岡山駅と操車場、煙草工場と製粉所、岡山城とバラック(中学校校舎)の3か所のみを設定し[4]攻撃の中心目標(MPI)を市街地の中心部、国道53号と県庁通りの交点(現:NTTクレド岡山ビル周辺)に決定した。周辺には当時の岡山市役所などが存在しており、最も効果的な攻撃が可能な地点であった。

[攻撃の中心目標となった現:NTTビル]
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1945年(昭和20年)6月に入ると戦局は一層激化し、3月の東京大空襲を始めとした大都市への攻撃から中小都市への攻撃へと対象が広がることとなった。そして、空襲7日前の6月22日には航空機の工場が存在していた水島地区がアメリカ軍による空襲を受けた(水島空襲)。


空襲当日
 6月28日夜、マリアナのテニアン島の基地からアメリカ軍の爆撃機・B-29、141機が岡山へ向けて発進した。B-29の一団は途中、3機がトラブルに見舞われ、テニアン島へ引き返したものの、残りは紀伊水道から淡路島の南の沼島、小豆島南端、犬島の上空を通過し、旭川河口から岡山へと侵入した。そして、翌29日午前2時43分、138機[5]のB-29による岡山市への爆撃が開始された。B-29が西に飛行しているという情報が岡山を監督する岡山監視隊本部に入ったのは、空襲の3分前の午前2時40分であった。しかしながらその情報は間に合わず、空襲警報が発令されないまま空襲が始まり、市内はほぼ壊滅状態となった。空襲には照明弾と焼夷弾が使用された。焼夷弾は爆風による破壊効果をもつ大型の油脂焼夷弾(AN-M47-A2)と殺傷能力を高めるために猛毒の黄燐が混入された小型の集束焼夷弾(AN-E48、集束弾からAN-M74焼夷弾38本が散開)の2種類が約890t(約95000発)投下され、市街地は一面火の海となり、逃げ場を失った1700人を超える市民が犠牲となった。

空襲後から終戦まで
 6月29日の空襲によって多数の市民が犠牲となり、市街地の73%が焼け野原と化し、国宝(現在の重要文化財に相当)に指定されていた岡山城の天守閣を始めとした文化財も失われた。7月9日には岡山県が「教育非常措置」を発表し、学童の縁故疎開、集団疎開を行う方針を固めた。一部の学校で集団疎開が開始されたものの、文部省によって岡山県の集団疎開が不許可となったため、同月末には集団疎開の方針を改め、分散教育を行うことに変更した。

 一方のアメリカ軍は7月上旬、岡山市を上空から偵察し、岡山市の破壊面積率を63%とする報告を行った。これは当初アメリカ軍が1回の空襲によって破壊を計画していた面積の119%にあたるものだった[2]。6月29日以降、アメリカ軍によって大規模な空襲は行われなかったものの、7月24日には四国沖に侵入した空母「シャングリラ」の空母艦載機12機による機関銃掃射によって岡山市をはじめとした県南部の操車場や運行中の列車が攻撃を受け、乗り合わせた市民ら44人が犠牲になった[6]。この艦載機による空襲は長らく目的が不明とされていたが、鳥取県境港市に所在した日本軍の航空基地攻撃のために出撃し、帰艦途中に攻撃したものであることが明らかになった[7]。

その後、8月6日には広島市に、9日には長崎市に原子爆弾が投下され、15日に終戦を迎えた。

岡山市の被害
羅災面積:7.69km²(市街地の73%)
羅災戸数:12693戸 
羅災者数:約12万人
死者数:1737人[8]
負傷者数:6026人

主な焼失地域
岡山空襲で焼失した主な地域を現在の町名、当時所在し被害を受けた建造物、その場所に現在所在している建造物について記す。

現:岡山市北区
石関町
内山下
表町-天満屋
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※県庁大通り沿い 手前は跡形も無い中国銀行、左奥は天満屋。
関西町-関西尋常中学校(現:関西高等学校)
京橋町
桑田町
後楽園
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※岡山後楽園付近
鹿田町-岡山医科大学(現:岡山大学鹿田キャンパス)
下石井
清輝橋-清輝国民学校(現:岡山市立清輝小学校)
田町-岡山市役所(現:岡山中央郵便局、川崎病院)、蓮昌寺、田町橋
中央町
津島
天神町-岡山県庁(現:岡山県立美術館、岡山市立岡山後楽館中学校・高等学校)
磨屋町-深柢幼稚園(現:岡山県農業会館)
錦町
野田屋町
蕃山町-旧岡山藩藩学跡(現:岡山市立岡山中央中学校)
番町
広瀬町
平和町-岡山劇場
奉還町
南方-岡山県立工業学校、南方国民学校(現:旧岡山市立南方小学校、旧岡山市立中央北小学校跡地)
丸の内-岡山城跡、岡山第一中学校(現:烏城公園)、陸軍岡山赤十字病院(現:日本銀行岡山支店)
柳町
弓之町-岡山県就実高等女学校(現:就実高等学校)

現:岡山市中区
御成町-浄教寺、大福寺
門田屋敷-山陽英和女学校(現:山陽女子中学校・高等学校)、
旭東国民学校(現:岡山市立旭東小学校)、
男子師範学校(現:岡山大学教育学部附属小学校・中学校)
小橋町-国清寺
中納言町
徳吉町
浜-岡山県第一岡山高等女学校(現:岡山県立岡山操山中学校・高等学校)
東山-玉井宮東照宮、三友寺、坂中荒神社
古京町
第六高等学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、三勲国民学校(現:岡山市立三勲小学校)
森下町


貴重なコメントを頂戴しました。ありがとうございます。

[SN様 大阪府在住]

今日は、岡山大空襲の日だったのですね。

昭和20年の今頃は、毎日日本のどこかは空襲で酷い目にあっていました。

当時10才でしたが、この年になるまで、矢張りあの戦争はどこかで止めるべき
であった、と思いますが、当時の戦況を考えると、その時期は分りませんね…。

昭和19年6月のマリアナ諸島のグアム、サイパン、テニヤン辺りが陥落した時期で
あれば、軍部は当然停戦などする気配はありませんね。

でも、あの時点辺りで、何とか止めておけば、昭和20年3月の硫黄島、4月~6月の
沖縄戦、そして本土への原爆投下はなかったのに…と思いますがねぇ…。

丁度、昭和19年の9月から、学童疎開が始まったのです。
この辺りで、何とか【白旗】を上げるべきだったまか…と思いますが、現在三島市在住の
従兄(93才)が昭和18年2月辺りから、ガダルカナルから奇跡の脱出に成功したのですが、
彼曰く、当時の日米の戦力、戦い方から、もうダメだと思った、と言っています。

この時期が、白旗の時期であった、と元陸軍中尉の彼は申しております。
当然、こんな事は全く無理の時期でした。

又お会いしましょう。



[SO様 岡山県在住]

当時私は県立N高等女学校の二年生でしたが、県北の田舎町・・・岡山空襲の現実を知ったのは二^三日たって、奉還町に住む遠縁の兄、妹が僅かな縁を頼って我が家に逃れてきたときでした・・・

幾ら探しても両親が見つからないので、ひとまず飢えを凌ぎにはるばるH村まで二人で来たのです。 二人の父の実家は我が家より三里くらい遠い山中の電気も来ていない田舎でした。 それからは おにぎりや、僅かな食料を持って両親探しの岡山往復が始まりました。両親は遂に見つかりませんでした。

私より一級上のS女学生と二中の学生だった兄妹は学校は中退・・・その後の生活はよく知りません。成人した後に二人の子供をつれた妹と偶然の出会いに幸せな生活をしていることを知って、手を取り合って歓びました。











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